錦帯橋再発見

木と石と鉄の芸術

■錦帯橋再発見■

岩国万葉からのメッセージ

周防在 磐國山乎 将超日者 手向好為与 荒其道
周防なる 磐国山を 越えむ日は 手向けよくせよ 荒きその道

「荒」の訓み方には、「あらき」と連体形に訓む説と、「あらし」と終止形に訓む説とがあります。

山口忌寸若麻呂(作)730年(天平2年)万葉集 巻4の567


※ この磐国山とは、欽明路峠でしょう。今日ではトンネルが出来、楽に通過できます。
万葉集に私達のまち 岩国が出ていることに感動しませんか・・・。

岩国の絵地図(1666年)岩国徴古館蔵

名橋にそそいだ岩国の情熱

発刊によせて

古川 薫(直木賞作家)

 徳川時代、防長(周防・長門、毛利氏の藩領)にかけられた主な橋は、萩の橋本大橋・松本橋、そして岩国の錦帯橋があります。いずれも17世紀中の創建で、この三つをくらべると、橋本橋・松本橋の長さがいずれも80メートル前後であるのに対し、錦帯橋は当時200メートルのけたはずれに長い橋です。

岩国川(錦川)に最初に橋をかけたのは吉川家2代の広正ですが、数次におよぶ架橋は大水によって流されてしまいました。そこで3代の広嘉は、何とかして流れない橋をと、みずから工夫してついに成功させたのでした。中国の西湖にかかる橋を参考にしたことは有名ですが、橋の設計に領主自ら参画しているのもめずらしい例です。

 関ケ原の戦いのとき、吉川広家は豊臣方に勝ち目がないと見て、ひそかに手をまわし取引しました。戦わないことを条件に毛利氏の中国8ヵ国の領土安泰を保証するという約束は破られ、防長2州に押し込められてしまい、広家の立場は悪くなりました。

 防長の所領を配分するにあたって、直系にあたる毛利秀元には長府(5万石)、毛利就隆には徳山(4万石)を与えて、これを支藩としましたが、傍流であるという理由で岩国を藩とせず「吉川家」として遇したのです。石高は6万石でありながら、岩国の領主は大名になれなかったのです。そのうちに長府から分かれた清末が1万石で大名に列せられました。これに不満をとなえはじめたのが、2代広正のときからで、3代広嘉も強く本家の萩藩に「昇格」を願い出ましたが聞き届けられず、それが実現したのは幕府が倒れた後の明治元年(1868年)でした。

 2世紀半にわたる吉川家の大名昇格運動の中で、もっとも積極的にそれを進めた3代広嘉が、架橋に情熱をそそいだというのも何か暗示的です。大名への夢の掛橋という思いがこもって、天下に誇る名橋は完成したのです。美しい5つの弧を描く錦帯橋は、吉川家が切望する“大名への虹”だったのかもしれません。

日本の名宝錦帯橋

日本の名宝 錦帯橋

■ 錦帯橋について知ろう

 岩国の錦帯橋は、日本の名宝です。国としても、すぐれた文化遺産なのに、錦帯橋は、なぜか国宝ではありませんね。不思議です。それはたぶん、我われの錦帯橋への愛が足りないのだと思います。愛は知なりと言います。まず、我われが、もっともっと、錦帯橋を知ることが必要だと思います。そこで、歴史の面から、錦帯橋のお話をすることにします。

■ 流れない橋を作る決心

 そもそものはじまりは、1600年、関ケ原の戦いの後に吉川広家が岩国に移り住むことになったことです。

■ なぜ、ここに橋を架けたのか

 ここに橋が架かることになった第一の理由は、1600年に初代藩主広家が、岩国城と城下町を作ることになったからです。つまり、岩国の都市計画が出来た時、この場所に城門橋を架けることを、広家が決めたということです。

■ いくたびも流れた橋…

 広家自身も、架橋を試みたでしょうが、17世紀はじめのことは記録がなくて分かりません。二代目藩主広正は何度か橋を架けましたが、すぐ流されています。最初の記録として、1639年、横山の渡橋守番人の規則が定められています。このことから、当時、橋があたことが推定できます。そして、1957年に完成した橋も、1659年5月の洪水によって流失してしまいました。

■ 広嘉の決心…

 橋をたびたび流失したこと、ことに1659年の落橋が、のちに三代藩主となる広嘉に流れない橋を架けようと、決心させたのです。

■ 流れない橋をつくるために

 橋が流れる原因・・・広嘉は、橋が流失する原因を検討しました。その結果、第一の原因は、橋脚が流木に押されて崩れることだと判りました。

■ 広嘉の長期計画・・・

 広嘉は、流れない橋をつくるのは、非常にむつかしいと、分かっていました。そこで、長期計画を立てました。有識の小河内玄可・真田三郎右衛門らを、新橋考案の相 談人にしました。また、青年大工の児玉九郎右衛門を、橋専門の研究員に任命しました。

■ 猿橋の研究から着手・・・

 さっそく、1661年、児玉九郎右衛門を甲州(山梨県)大月にある猿橋の見学調査に行かせました。広嘉が注目した猿橋は、橋脚のない跳ね橋です。山間の渓谷、川幅30mの所にあります。両岸からだんだん桁をせり出して行き、水面から14m上に長さ31m、 幅4mの橋板を架けたものです。猿橋のような跳ね橋は、川幅30m程度の渓谷なら架けることができます。しかし、川幅200mとはるかに広い錦川において、そのままでは応用できません。よい工夫はないかと、困っておりました。

■ 西湖志から基本的な構想に到達・・・

 1664年に独立(禅僧)は、広嘉の治療のため、岩国へ招かれました。独立は、中国杭州から長崎へ渡来していました。明が亡び清の世になって、日本に亡命していたのです。長崎では、名医として有名でした。
独立が所持していた「西湖志(西湖遊覧志)」に、西湖の図がありました。その中に、蘇堤が描かれ、島から島へと架け渡されている六橋があります。独立が「西湖志」を開いて説明したところ、広嘉はこの図を見て、島伝いにアーチを架けることを、思い付いたのです。
 なお、西湖は、中華人民共和国の浙江省杭州市にあります。景勝地として有名で、名所旧跡が多くあります。
唐代の白居易にゆかりの白堤があります。また、宋の時代に、蘇東坡が蘇堤を築いたとされています。

■ 独立の果たした役割・・・

 独立の存在があってこそ、木造アーチの直列という基本構想に、広嘉は到達しました。さらに、中国における橋梁の知識も独立を介して得たものと考えられます。また、広嘉の病気を治療し、軽快させたことも、忘れることはできません。

■ 考案の具体化

・橋の具体化・・・

 島伝いにアーチを架けると言っても、西湖と錦川では条件が違います。西湖の橋は、小島の土手に架かっています。しかし、錦川は洪水になるので、島(橋台)は石垣で固めなくてはなりません。そして、島(橋台)の数は、なるべく少なくし、形はなるべく小さくしなくては なりません。
結局のところ、橋台は四つ、したがって橋(橋体)は五つと決まりました。しかし、五橋のうち両端の二橋は、 流れが弱いので、ふつうの柱橋にして、中の三橋を足のないアーチにしました。この木造の三連続アーチ(3スパンアーチ)というのが、世界でも類のない、すばらしい橋なのです。
 なお、錦帯橋は全長約200mです。したがって1ス パンは約40mとなります。

・設計の担当者・・・

 橋台の設計を担当したものは、宮原又右衛門と戸川理右衛門の二人でした。また、橋体を設計したのは、児玉九郎右衛門です。

・十年近くの歳月・・・

 基本的な構想から架橋の実施まで、十年近くの歳月がたっています。この間に、頭で考えるだけでなく、実験と改良をしています。橋台も橋体もそれぞれ、どんな構造が最もよいか調べています。
とくに、錦帯橋創建の前年である1672年に、児玉九郎右衛門は長崎に行っています。橋の設計を仕上げるためと思われます。

・錦帯橋の誕生

 架橋の見通しがつくと、広嘉は関係者を集めて、何度も討議しました。そして、精密な計画が立てられました。

・着工からわずか3ヵ月で完成・・・

 橋台・橋体の設計ができたところで、1673年に架橋に着手しました。まず、木造アーチの桁と梁の部分の組立を、横山の蓼原で予行しました。そして、梅雨明けの6月28日、橋台の起工式を行いました。工事の記録がないので、詳しいことは判りませんが、9月30日の夜までに、錦帯橋は見事に完成しました。わずか3ヵ月という、その速さには驚きます。

・なぜ速くできたか・・・

 木材や石材を事前に準備しておきました。ついで、木造部分や石垣は、いちど組み立ての予行をしています。 さらに、四つの橋台を同時着工して完成後、五つの橋体 も同時に工事しました。これが、工期短縮に役だちました。

■ 錦帯橋創建における広嘉と児玉九郎右衛門

・創建者としての広嘉・・・

 錦帯橋は広嘉の創建と伝えられています。それは、藩主としての名誉ばかりでなく、技術の面にも関与しているからです。
しかし、その創建は、多くの技術者が、長年苦心して研究した成果です。ただし、その功労者の児玉九郎右衛門にしても、彼をいちはやく登用して、橋体の研究をさせたのが、広嘉です。しかも、木造アーチの直列という基本構想に到達したのが広嘉ですから、錦帯橋の創建者とされるのも当然です。

・専門技術者の児玉九郎右衛門・・・

 広嘉が立てた長期計画は、まず、橋専門の大工を養成することでした。初めから、青年大工の児玉九郎右衛門を抜擢して、橋体の研究を命じました。
ついで、広嘉が基本的な構想を得てからは、考案の具体化になりました。橋体には、橋台にも増して多くの困難な問題がありました。広嘉の期待に応えて、長い年月ののち、設計を完成しました。多くの協力者があったとはいえ、技術者の代表として、その名誉を担うべき人です。

■ 建設の翌年に起きた錦帯橋の流失と再建

 建設の翌1674年5月28日の洪水で、錦帯橋はよもやの流失をしました。中央の橋台二つが崩壊して、三連続アーチが落ちて流れたのです。

■ 流失の原因究明・・・

 橋台そのものに欠陥があったのではなく、川床を固めていた敷石に不備があったのです。橋台周囲の敷石が洪水で端の方から剥がれて流れ、橋台の根元が掘れて淵になりました。そのため、橋台の石垣が底の方から陥没したのです。

■ 再建と川床敷石の強化・・・

 橋台が崩れた原因が判明すると、ただちに、広嘉が再建を命じました。6月になり、水が引くと、橋台二つを築き直しました。それとともに、川床の全面に大石を敷いて、橋台の周囲が掘れないようにしました。
これによって、その後は、木造部の架け替えは行ってきましたが、橋台は全く造り直しせずにきました。

■ 錦帯橋の財政的基盤・・・

 当時の岩国藩は、財政が豊かだったので、錦帯橋の創建、さらに再建が可能であったと考えられます。とくに、紙の専売によって多くの収入を得ていました。

■ 276年間流れなかった橋

 再建された錦帯橋は、276年間も流れずに、保ってきたのです。たった一回の流失から多くのことを学びとったと言えるでしょう。

■ 橋の木造部の架け替え・・・

 橋の木造部の架け替えは、10回あまり行われています。そのつど、桁の補強部材や、らんかん、敷板などに、改良変更が行われています。

■ キジア台風による流失と再建

 1950年、キジア台風による洪水で、錦帯橋は再び流失しました。中央の橋台一つが崩れて、二つのアーチが流されました。

■ 流失の原因・・・

 前回と同じく、敷石が剥がれて橋台が崩れたのです。数年前から、敷石の剥落があったのに、修復するのを怠っていたからです。

■ 再建と近代的工法・・・

 1953年、復興再建したときは、木造アーチの部分は、1801年の架け替えの様式に復原してつくられました。
しかし、木造アーチの根元と橋台の部分は、すっかり近代的工法に改められました。これでもう、橋台が崩壊する心配はなくなりました。

■ 旧観の保存・・・

 石垣は、もう必要ないわけですが、旧観を保つために取付けてあるのです。敷石も同様に、もうなくてもよいのですが、これも旧観を保存するために敷いてあります。

■ これからの錦帯橋

 錦帯橋の本当のすばらしいところは、外観の調和の美と木造アーチにみられる構造の精巧さです。錦帯橋は、長い歴史の中で多くの人々に守られ、いちどもその美しさと機能を失うことなく、歴史とともに今日に到ってきました。
今後も、錦帯橋の未来に向けて、定期的に橋の木造部を架け替えます。その時に備えて、ケヤキを植えています。
みなさんが、錦帯橋の美しさと、構造の精巧さを理解して下されば、錦帯橋は、ただ日本の名勝にとどまるものではなくて、世界に誇れる日本の文化遺産として、きっと、国宝になるものだと信じています。

木と石と鉄の芸術

 今まで錦帯橋のことは、「釘一本使っていない錦帯橋」とか「木組の錦帯橋」と言うように表現されていました。本当にそうでしょうか…。
 結論から言いますと、錦帯橋は、「木と石と鉄の芸術」と言うことが出来ます。いや、そういうべきです。吉川広嘉をはじめとして創建に携わった多くの人々の技術水準と美的感覚のすばらしさに今更ながら敬服いたします。

[木]・・・

 錦帯橋は「木」でできたアーチ状の橋体の部分が大変印象的で「木」だけで出来ているような気がします。もちろん「木」を主体にして橋は造られていますが、本当に「木」だけで出来ているのでしょうか。

「石」・・・

 また、錦帯橋を横から見ると橋台は明らかに「石」で出来ており、この頑丈な橋台が石の「島」なればこそ長年の激流にも耐えることが出来れにそった流線形 ました。さらに橋の真上から見ると橋台は川の流に造られています。激流から橋台が受ける抵抗を減少させるための英知がうかがえます。また、橋台の上流と下流の川底にはぎっしりと石が敷き込まれ、簡単に橋台の根元がえぐり取られないようにしてあります。橋台は「木」との色調にまで配慮された暖色の石積みです。とくに、橋台は連続する木製アーチに直交し、両者はあらゆる角度からの眺めに絶えず最高の姿を示してくれます。

「鉄」・・・

 錦帯橋の橋体が本当に「木」だけで出来ているのでしょうか。ふと疑問に思い、実際に橋を渡ってみたり、橋の下から見ると、色々な所に「鉄」(正しくは「鉄」ではなく「鋼」と表現すべきでしょうが、ここでは一般的な表現として「鉄」と表示します)が使ってあります。 なぜ「釘」一本使っていないと説明する必要があったのでしょうか。「釘」を使っていると錦帯橋の価値が下がると思ったのでしょうか。大変不思議なことです。
 むしろ逆に「鉄」の利用方法に長けていたと言う方が正しいのではないかと思います。
 構造力学的に探求すると極めて巧に「鉄」が使われています。「釘」や「かすがい」という単純な接合材としての利用はもちろんです。究極的な利用は「巻金」です。「巻金」は組立アーチ(5本の組立アーチで1スパンの橋体が出来ています)そのものの実現に決定的な要素として考案されました。「巻金」は下図のようなC型の鉄材です。組立アーチは少しずつずらしながら上下に重ねられた多くの木製の桁材で出来ています。しかし重ねただけではばらばらになります。これを要所要所で締め付けるためにこの「巻金」が使われました。「巻金」は2個づつ対にして使われています。「巻金」のおかげで組立アーチはただ単に重ねた桁材の数十倍、数百倍にもなります。「巻金」は錦帯橋で最も重要な「鉄」と言っても過言ではありません。実際に「巻金」を取付けるにはちょっとしたアイデアが必要です。皆さん考えてみてください。
 これは推測ですが、錦帯橋が創建された1673年の姿は現在の錦帯橋よりもはるかにスマートであったと断言できます。それは今日見られる、「鞍木」(下から見ると「V」の連続した形に見える補強材)は1678年以降に取付けられたという記録から言うことが出来ます。
 すなわち、創建者は相当この「巻金」で補強された「組立アーチ」に自信にあったものと推察されます。従って錦帯橋を語るとき「鉄」を語らずして創建者の意をくむことは出来ないはずですし、「鉄」なくしてはこのような芸術的な姿は到底実現することが出来なかったと思います。

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CGによる錦帯橋の考察

 CG(Computer Graphicsコンピュータグラフィックス)にて錦帯橋の構造を示しました。
これによって錦帯橋が科学的に造られていることが分かります。しかもこれらは機能的、芸術的ですね。
 創建当時もし広嘉や児玉九郎右衛門がこのCGの技術を知っていたらどんなに喜んだでしょうか……。

多くの桁を束ねる巻金(赤色)
たばねられた桁は1本の組立アーチとなります。
五本の組立アーチで1スパンが出来ています。
組立アーチを補強する鞍木と助木(赤色)
創建時には設置されていませんでした。
組立アーチの倒れと桁のずれを止める梁(赤色)
すぐれた工夫が見うけられます。
水平方向の剛性を保つブレース(赤色)
今日の技術水準と比べても大変すばらしいものです

CGによる錦帯橋(橋体)の構造図 (c)MatsuyaSangyo Co.,LTD.

国際交流の証

■ 独創的な仕事 

 蘇堤の六つの橋を見て、広嘉が錦帯橋の基本構想を得ました。誰でも思いつくわけではなく、問題意識のある人のみが、着想できるのです。

 基本構想を具体化する際に、中国から橋梁の知識を吸収したと考えられます。なぜなら、長崎にいる僧独立から、文献や、その知識のある人びとをさがすことができたからです。それでも、川幅200mという長い川に、流れない橋を架けることは、当時の技術そのままでは、不可能です。

不可能を可能にしたのは、二つの独創的な新機軸です。一つは、木造のアーチ橋を完全なものにしたことです。もう一つは、橋台と木造アーチ橋を併用して、長い橋を作ったことです。

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僧独立が住んでいた頃の西湖 -西湖を北側から見た図です (警世通言、1624年)

■ 芸術的な名前

錦帯橋の名前と姿は華麗であり、芸術的です。その橋名の由来は、多くの説があり、はっきり分かっていませんでした。今回、その名前の由来が分かりました。

西湖遊覧志の西湖図に、白堤の錦帯橋は、名前が記入されていません。錦帯橋と命名される前につくられた本だからです。その後、僧独立が生まれたときには、錦帯橋と呼ばれていました。西湖に住んでいた僧独立は、当然、白堤を広嘉に説明するとき、錦帯橋を追加するはずです。このとき、錦帯橋の名前が広嘉の心の中に鮮明に残ったものと思われます。

このように、岩国の錦帯橋は、はじめから、そのように命名されたと考えざるを得ません。ただし、文献的には、1976年に初出です。

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宋の首都・虹橋

中国には、すでに11世紀末には、木造アーチ橋があった事が知られています。ただし、錦帯橋の方がより進んだ構造をしています。

■ 国際交流の証

 僧独立が橋渡しをして、日中両国に錦帯橋が生まれました。国際交流をした歴史の所産です。国際交流の象徴として、抗州市と岩国市という二つの場所に、錦帯橋は存在していると言えるでしょう。

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明朝西湖図 蘇提の六つの橋(西湖遊覧志、1547年)

杭州市・西湖の錦帯橋

現在の杭州市西湖の錦帯橋

現在の観光パンフレット

日本中国の錦帯橋

■ 中華人民共和国から報道された両国の錦帯橋

錦帯橋は中日の姉妹橋

 杭州の白堤は西湖の水面に横たわっている。東の断橋から西の平湖秋月まで長さ1km、まるで一本の錦の帯が紺ぺきの水の上に浮いているようである。白堤に橋が二本かかり、一本は「断橋」、あと一つが「錦帯橋」と呼ばれる。中国の人びとは断橋のことなら熟知しているが、錦帯橋についてはよく知らない。

 錦帯橋はその昔涵碧橋と呼ばれ、唐代からすでに存在していた。南宋になると、南宋の著名な画家李嵩が『西湖図』の中でここを描き、「湖山佳処」と呼んだ。その後、湖水の浸蝕と、長年手入れをしなかったことから、白堤は崩れ落ち、この橋もなくなってしまった。明の万暦17年(1589年)、司礼太監孫隆が白堤を修復し、「十錦塘」と改称した。また涵碧橋の旧跡に木をかけて梁とし、修復後は「錦帯橋」と命名した。清の康煕年間には、地元の役人は康煕帝が西湖で舟遊びしたいと言いだしたため、またもや石を切って橋をつくり、石橋となった。清の雍正8年(1730年)になると、浙江省総督の李衛が再度修復を加え、橋は今日見るような形となった。

 面白いことに、日本の山口県岩国市の錦川にも同名の錦帯橋があるが、中国の錦帯橋と違う点は橋がアーチ型木構造ということだ。いまから三百年前、杭州の僧侶独立禅師は清朝を嫌って日本に渡った。その時、彼はふるさと西湖の史料を多数携えて行った。日本人民は昔から有名な西湖の山水風光や名所旧跡に憧れていたので、都合よく独立禅師持参の『西湖志』に記載された明代の錦帯橋の様式を模して、風光明媚な錦川の上に橋を架け、その名も「錦帯橋」と命名した。橋の姿は極めて壮観で、中国のものと異なる点は一方が清朝の石で作られた橋であるのに、もう一方は明代の木製のアーチ型の橋であることだ。1973年、岩国市民は錦帯橋建造三百周年を記念して盛大な慶祝行事を行い、中国の著名な書家趙樸初氏が自ら筆を執り、錦帯橋記念碑落成の碑文を書いた。

 西湖と錦川は互いに遠く離れているが、二つの錦帯橋は姉妹同様一衣帯水の隣どうしの国の土地にそれぞれかかっている。二つの橋は中日両国人民の伝統の長い科学技術と歴史文化の交流の象徴であると同時に両国人民の友情の象徴でもある。



(「人民日報」海外版1990年1月5日)

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