毛利元就

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遅咲きの知将 毛利 元就

 毛利氏のルーツは、鎌倉幕府誕生に大きく貢献した大江広元。その子孫が安芸の国に移り、吉田に住むようになりました。

 毛利元就は、郡山城主毛利弘元の二男として、今から500年前の1497年(明応6)に生まれました。21歳の時初陣で「有田城合戦」に勝利し、近隣に「安芸に元就あり」と名をあげました。27歳で宗家をつぎ、元就は大内氏の勢力下に入ることを決意し、長男の隆元を山口に人質として送りました。その後も、山陰の尼子氏による二度にわたる郡山城攻め、大内氏に従った出雲侵攻など、毛利氏はいつも大きな危機にさらされていました。

 1551年(天文20)、武より文を好んだ大内義隆が重臣の陶晴賢に攻められ、長門の大寧寺で自刃しました。この事件を契機に、中国地方は大きな転機を迎え、1555年(弘治元年)、元就は、満を持して晴賢に決戦を挑みました。このとき、元就59歳。この「厳島合戦」の勝利をきっかけに、毛利氏はまず防長(山口県)を攻略し、次第に中国地方を手中にしていきます。10年後には尼子氏を滅ぼし、「遅咲きの智将」元就は、名実ともに中国地方一の大名になりました。

 その後、孫の輝元は豊臣家の五大老になり、天下分け目といわれた「関ヶ原合戦」で西軍の総大将として徳川家康と戦いました。この戦いに敗れた毛利氏はこの山口の地に移封となり、萩の指月山の麓に城を築き、廃藩置県まで約260年にわたって防長2カ国36万石を治めました。

毛利元就年表

毛利元就年表 日本史年表 
1497(明応6)毛利弘元の二男として、吉田の郡山城(広島県吉田町)で生まる1467(応仁元)応仁の乱起こる
1517(永正14)有田城合戦(元就、初陣)で佐東銀山城武田元繁に勝つ。この頃、小倉山城吉川国経の娘をめとる1468(応仁2)京都の公家が、応仁の乱を避けて山口など地方へ移る
1523(大永3)長男隆元誕生。元就、毛利の家をつぐ1483(文明15)将軍・足利義政、勘合船を明に送り、銅銭を求める
1525(大永5)尼子との同盟を解消し、大内義興に従う1503(文亀3)足利幕府、李氏朝鮮に通信符を送る
1530(享禄3)次男元春誕生1523(大永3)この頃、山口、小田原などの城下町が大いに繁栄した。大内氏は石見銀山の発掘・貿易で富み、京都から公卿や職人が多数、山口に来る
1533(天文2)三男隆景誕生。五龍城主宍戸元源と和約  
1537(天文6)長男隆元を人質として大内氏に送る  
1540(天文9)尼子氏備後路より侵入(第一次郡山城攻め)。9月、再び尼子晴久石見路より侵入、郡山城を囲む(第二次郡山城攻め)  
1542(天文11)大内義隆の軍と一緒に出雲遠征に向かう  
1543(天文12)尼子軍の反撃にあい、大内軍撤退。元就も石見路より退く(七騎落ち)1543(天文12)種子島に鉄砲が伝わる
1544(天文13)隆景、竹原小早川氏をつぎ、竹原入城1544(天文13)尼子晴久、山陰を従え、威をふるう
1545(天文14)元就夫人、病没(法号は成室妙玖)  
1546(天文15)家督を隆元に譲る  
1547(天文16)二男元春、吉川氏と養子の約束が成立1549(天文18)フランシスコ・サビエル鹿児島、平戸、山口、京都に来て、キリスト教を伝える
1549(天文18)元就、元春、隆景を伴い山口にて、大内義隆に謁見する。1551(天文20)サビエル、山口を再訪。大内義隆、陶晴賢に攻められ自刃
1553(天文22)隆元の長男幸鶴丸、郡山城で誕生(後の毛利輝元)1553(天文22)上杉謙信、武田信玄と川中島に戦う
1555(弘治元)厳島合戦で陶晴賢に勝つ(陶晴賢は自刃)1560(永禄3)織田信長、桶狭間の戦いで今川義元を破る
1557(弘治3)沼城を落とす。若山城を攻める。防府天満宮大専坊に本陣を移す。旦山城を落とす。勝栄寺で三子に教訓状を書く1568(永禄11)織田信長、足利義昭を奉じて、京都に入る
1562(永禄5)出雲に兵を進め、尼子氏の本城月山富田城を包囲する1573(天正元)室町幕府滅ぶ
1566(永禄9)尼子義久兄弟、毛利軍に降伏し、月山富田城を開城1576(天正4)織田信長、安土城に入る
1571(元亀2)元就軍山城で死去(75歳)1585(天正13)羽柴秀吉、関白となる(翌年、太政大臣)
1589(天正17)毛利輝元、太田川河口に広島城築城を始める1590(天正18)秀吉全国を統一
1600(慶長5)関ヶ原合戦で、徳川家康の東軍が圧勝。輝元は防長二カ国に移封される1600(慶長5)関ヶ原合戦
1604(慶長9)輝元、萩に入府1603(慶長8)徳川家康征夷大将軍となり徳川幕府を開く
  1615(元和元年)大阪夏の陣

毛利氏略系図

元就の初陣「有田城合戦」

 1517年(永正14)、安芸の守護武田元繁は付近の国人たちに、主従関係を結ぶように迫ったが、有田城主の小田信忠は従いませんでした。有田城合戦は、武田元繁と、小田信忠を支援する吉川氏・毛利氏との間の戦いでした。武田元繁は、毛利氏の軍勢によって撃退され討死しました。21歳の元就は、初陣のこの戦いで付近の国人に「安芸に元就あり」と、その存在を強くアピールしました。

人生最大のターニングポイント「厳島合戦」

 毛利元就と妻「おかた」との間には、隆元・元春・隆景の三人の息子と、娘が1人いました。元就は二男の元春を妻の実家である安芸新庄の吉川氏に、三男の隆景を竹原・三原に勢力をもつ小早川氏にそれぞれ養子に入れ、付近の国人との結び付きを強めていきました。元春・隆景の二人はその後も甥の毛利輝元を助け、毛利氏の発展のために尽くしました。この二人の名字に「川」の字がつくことから「毛利両川」と呼ばれました。

情報を駆使した戦国サバイバル

 戦国大名は、現代人もびっくりするくらい情報を駆使していました。相手国の正確な情報をいち早く知り、的確な判断を下す。そんなセンスがないと、戦国大名として生き残っていけませんでした。毛利元就は情報を集め、活かしながら戦う名人でした。ここで大活躍したのが、一般的には忍者、間者と呼ばれる人たちで、彼らは想像以上の速さで情報を元就に届けていたようです。

毛利両川と呼ばれた吉川元春と小早川隆景

 毛利元就と妻「おかた」との間には、隆元・元春・隆景の三人の息子と、娘が1人いました。元就は二男の元春を妻の実家である安芸新庄の吉川氏に、三男の隆景を竹原・三原に勢力をもつ小早川氏にそれぞれ養子に入れ、付近の国人との結び付きを強めていきました。元春・隆景の二人はその後も甥の毛利輝元を助け、毛利氏の発展のために尽くしました。この二人の名字に「川」の字がつくことから「毛利両川」と呼ばれました。

元就の遺言は「天下を望むなかれ」

 わずか300貫の城主から、一躍中国地方の大大名になった元就の遺言は「天下を望むなかれ」だった。ところが、孫の輝元は彼の遺言に背き、天下取りという淡い野望を抱く。関ヶ原合戦で豊臣方の総大将となったため、徳川家康が天下を取ると、あやうく何もかもなくすところでした。しかし、かろうじて周防・長門二カ国36万9千石を保つことができましたが、中国八カ国、112万石の大大名が、遺言を守らなかったため領国は減少してしまいました。

20歳の時に決めて、生涯守った「禁酒」

 毛利元就は5歳のときに母を、10歳で父をなくしています。父弘元が33歳、祖父が39歳、兄が24歳と、みな若くして亡くなっています。どうやらその当時の毛利の殿様はそろってお酒が大好きだったらしい。とはいえ、20代、30代で死んでしまっては領国経営は苦しくなるばかり。元就は兄が亡くなったときに「禁酒」を決意し、生涯この誓いを守りました。お酒を飲まないからというわけではないでしょうが、元就の好物は餅で、一度に5つ、6つは平気でたいらげたといいます。

隆元・元春・隆景の3人の子どもに和を解いた「三矢の訓」

 毛利元就は臨終の枕元に三人の子供を呼んで、「一本の矢はすぐに折れるが、三本束ねた矢は折ることが難しい。おまえたち兄弟もこのように力を合わせて毛利の家を守っていくことが大切だ」と語ったといいます。これは有名な「三矢の訓」のエピソードですが、元就が実際に三人の子供に教訓状を書いたのは、厳島合戦の2年後、1557年(弘治3)のことです。江戸時代になって、この教訓状と中国の故事が混ざって、「三矢の訓」のエピソードが生まれたのが真相のようです。

妻と二人三脚で毛利の家を大きくした元就

 元就は結婚した当初、収入300貫、猿掛城という小さな城の城主でした。今でいうなら従業員が数十名の中小企業の社長といったところ。元就と妻「おかたさま」は、結婚後、力を合わせて役割を分担し、毛利の家を大きく発展させていきました。「おかたさま」の存在なくしては、毛利の家は動いていかなかったに違いありません。49歳のときに分身というべき妻を亡くした元就は、その後も子供たちにあてた手紙にたびたび「妙玖(妻の法名)さえいてくれたら…」と書き残しています。

このホームページは山口県商業観光課・(社)山口県観光連盟 作成の冊子
「山口毛利元就ハンドブック」より抜粋して作成しました。